鹿児島県鹿児島市の南洲墓地は西郷隆盛翁の墓があることで有名です。
この墓地は、西南戦争において反明治政府軍(西郷軍)に所属した人々の墓も西郷翁の墓と共に建てられています。
有名所で言えば桐野利秋(きりの としあき)の墓ですね。旧名は中村半次郎(なかむら はんじろう)と称し、幕末の時代、まだ西郷隆盛翁が西郷吉之助(さいごう きちのすけ)と名乗っていたときから西郷翁の側近として働いた薩摩藩士です。
この中村半次郎=桐野利秋は幕末のときには「人斬り半次郎」と呼ばれた男でした。この人も、自源流の一門で修行した経験のある男でした。
この人斬り半次郎と称された剣士より年齢はずっと下ですが、剣腕は高かったとされるのが蒲生彦四郎(かもう ひこしろう)という男です。
この蒲生彦四郎という人も天眞正自源流で修行した剣士であり、墓も南洲墓地に建てられいます。
蒲生彦四郎とは変名で、本名は溝口征一郎(みぞぐち せいいちろう/アザナは康輔「こうすけ」)です。この人は、天眞正自源流の11代目継承者である溝口貞勝(みぞぐち さだかつ)の実子で長男であり、本来であれば12代目を継承していたであろう人です。
武号は「源鬼(げんき)」と称したようです。
天眞正自源流の12代目は溝口征一郎先生(蒲生彦四郎)の実の弟であり、溝口貞勝先生の三男となる溝口玄心先生が継承しました。
長男戦死、次男病死となり、三男である溝口玄心先生が流儀の代表として継承したということです。
長男である溝口征一郎先生(蒲生彦四郎)は西南戦争における最終戦闘となる城山の戦いで西郷軍の殿軍(しんがり)を務め、明治政府軍の銃撃隊に射殺され戦死しました。享年19歳でした。
溝口征一郎先生は西郷軍の五番大隊内六番小隊の小隊長でした。この部隊は西郷隆盛翁の近衛部隊であり一番の腕利きたちが所属していた部隊でした。そこの小隊長に任命されていた訳ですので、剣腕の卓越さは凄まじかったものと思われます。
城山の戦いでは明治政府軍の銃撃隊が到着するまでの間に六番小隊は奮戦してその武勇を振るい、白兵戦では政府軍を寄せ付けず大将である西郷隆盛翁の殿軍(しんがり)としての働きをまっとうしたようです。
日本における最後の内乱となる西南戦争で活躍した立派な剣士でした。
願わくば、自源流開祖の教えの通り「心和」の世界を作るための武術として今後も発展していきたく思います。
加地龍太