関ヶ原の戦いの跡地へ

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流儀の先達が戦った土地

岐阜県は昔は美濃国(みののくに)でした。
ここの関ヶ原という土地で西暦1600年に二つの軍事勢力が東軍(徳川派勢力)と西軍(旧豊臣派勢力)に分かれて激突しました。
とても有名な関ヶ原の戦いですね。

この戦いに薩摩国の領主であった島津家も西軍側に与して参戦しました。
その当時の島津家の家長は島津義弘であり、その兄の島津義久はご隠居様として国許にいて、戦場である関ヶ原には島津義弘が出陣しています。

島津義弘は関ヶ原の戦いより少し前の朝鮮出兵の際、泗川の戦いにおいて明・朝鮮連合軍から鬼島津の異名で呼ばれた猛将です。
その島津義弘が約1500人という少人数で西軍側で参戦、国許の島津義久は義弘からの増兵を送って欲しいという願いを拒絶したと記録されていますが、島津義弘を個人的に慕う薩摩武士はとても多かったようで、当時の義弘派の薩摩武士たちは各自の判断で九州の南の果てである薩摩国(さつまのくに)から美濃国(みののくに)の関ヶ原まで走ってやって来て、戦さが始まるまでの数週間で1500人から2000人が義弘の元に到着し、諸説ありますが3000人から3500人に増員した状態で関ヶ原の戦いに参戦出来たようです。

その中に流儀の先達もはっきり分かっているだけで二名、島津義弘陣営に参陣しています。
天眞正自源流の四代目の継承者である瀬戸口和泉守宗重(せとぐち いずみのかみ むねしげ)とその高弟の一人である山田有栄(やまだ ありなが)の二名です。

島津の退き口(しまづののきぐち)における最大功労者と称された山田有栄

島津義弘軍は関ヶ原の戦いでは終始不動を貫き、島津陣営に近付いた敵に対して応戦したのみで自ら攻勢に出る積極性は捨てていたと記録されています。
先見の明があったのか、徳川の時代になることを見越した政治判断かと思われます。

戦いの終局、西軍の負けが明瞭となった後、島津義弘軍は大将である義弘を中軍に据え、その左右と前後方の四方に陣を敷いて戦場を一直線に突っ切り、敵方の大将である徳川家康の陣の目の前を堂々と通過して国許の薩摩国まで帰還するために走りました。
有名な「島津の退き口(しまづののきぐち)」ですが、この撤退戦における最大功労者だと島津義弘本人から称されたのが山田有栄(やまだ ありなが)となります。

島津陣地跡↓

↑の陣地から関ヶ原の戦場を突っ切る島津の退き口の際、山田有栄は四方の陣のうちの右備えに入っており、大将である島津義弘に傷一つ加えさせない働きをして、本国に向けての走中に通過したある村では、兵糧と休息所を提供してくれた村人への代償として支払うべき御遣銀が底をついていることが判明すると、そんなものは踏み倒して先を急ぐべきという他の者の意見を制して、有栄は自らの刀の金象嵌の鞘を村に置き残したと記録されています。

これらの活躍により、有栄は関ヶ原の戦いにおいて「軍功並ぶものなし」と義弘に言わしめ、帰国後に義弘より200石の加増を、義久より「丹波守吉道」の銘刀を賜ったとされています。
島津の退き口は成功し、大将である島津義弘は無事に薩摩国(さつまのくに)まで生きて帰ります。

島津義弘と共に薩摩国まで生還出来た人数は数十名だったとのことですので、3000人から3500人の中からと考えると撤退戦の過酷さが伺えます。
この撤退戦では、「釣り野伏せ(つりのぶせ)」と並ぶ島津の御家芸とされる「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる殿(しんがり)戦法が敢行されて大将の島津義弘を参陣していた薩摩武士全員で守り抜いたという形になりますので、国許まで生還出来たのが数十名になったというのも捨て奸の性質を知れば納得出来ます。ご関心のある人は調べてみて下さいませ。

この撤退戦において瀬戸口宗重と山田有栄は薩摩国まで生還した生き残り組の数十名の中に入っています。
江戸時代になった後、瀬戸口家は訳あって断絶となりましたが天眞正自源流の師範家は薬丸家へと移り、現代に至るまで継承されてきております。

山田有栄は江戸時代には出水郷の地頭となり、出水兵児修養掟を作り、幕末に至るまでの薩摩の男の「かくあるべき」という理想像の要を作りました。

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