古の誇り、新たなる勇気
薩摩の魂、剣と心の道
薩摩藩は、鹿児島県に根付いた天眞正自源流兵法を育んでいました。この藩は外城制度や門割制度などによって、他の藩には見られない強力な封建体制を幕末まで守り抜きました。
薩摩の武士たちは、郷中教育と並行して、薩摩琵琶などの藩独自の武士教育を受けていました。これらの要素は薩摩藩士に深い影響を与えましたが、特に天眞正自源流兵法は独自の存在として確立されました。その結実には、当時の社会的背景を理解する必要があります。
開祖である瀬戸口備前守の時代は、南北朝の抗争や応仁の乱による混迷、そして200年にわたる古代権力と封建勢力に対する戦いが熾烈を極めた時代でした。このような背景の中で、島津氏も薩摩入国後に三州紛乱や九州制覇、秀吉の侵攻、そして「朝鮮出兵」と「関ヶ原の敗北」に直面していました。
一方、応仁の乱以降の暗黒紛争時代は、近世文化の始まりとも言える時期であり、乱世の中で新たな権威や制度が築かれ、古い文化の衰退と分散が新しい文化の芽を育てていました。中央で独占されていた文化は地方の武士階級に伝播され、豪族の力が地域文化の発展に寄与しました。
薩摩では禅宗の隆盛とともに宋学が広まり、儒仏二教の一致哲学なども新たな文化として広まりました。このような時代背景の中で、天眞正自源流兵法は薩摩に根付いていったのです。
薩摩武士道は、君主、朋友、妻子、人を信じること、目的を全うすることを根底に置く人道の教えであり、明治維新の大業も、一つの信じた道を疑わなかったからこそ成し遂げられたものです
薩摩藩は、天眞正自源流兵法を育んだ名門。その剣法は幕末から明治維新にかけて勇名を馳せましたが、その実態は解明されぬまま、廃刀令により薩摩剣法の名前は歴史の表舞台から姿を消しました。
しかし、昭和三十九年、第二十七代上野源心師父によって、天眞正自源流兵法が戦後初めて公開されました。源心は戦後処理に従事しながら、青少年育成のために東京浅草に総合武道尚武館を建設しました。ここで多くの門人が集い、尚武精神を根本にした自源流武術を学びました。
源心の尚武精神は、閉門後も絶えず継承され、昭和五十七年には「総合武道源心会」が設立され、広範囲にわたって指導が展開されました。さらに、平成九年には実弟の「童心」が第二十九代目を継承し、天眞正自源流兵法は海外にも支部を置き、青い目の剣士たちに伝えられています。
源心の顕した「尚武の精神」は、御流儀の武術だけでなく、全世界の武術志向者に向けて、国境を越え、人種と言語の壁を越えて、理想への道を示しています。