加地家は元は近江国(おうみのくに)の佐々木荘(ささきのしょう)を根城にしていた佐々木家となります。
佐々木家から分派した数多くの家の一つが、鎌倉時代初期に越後国(えちごのくに)の加地荘(かじのしょう)の地頭となった加地家です。加地家は越後国に渡った佐々木党の中心勢力となりました。
加地家の元となった家である佐々木家は、近江源氏(おうみげんじ)です。近江源氏は、神武天皇を初代とした際の第59代目の天皇である宇多天皇(うだてんのう)を祖とする源氏の一族です。
宇多天皇には八男(八番目の息子)の敦実親王(あつみしんのう)がいました。その敦実親王の三男(三番目の息子)の雅信王(まさのぶおう)が、西暦936年に臣籍降下して源(みなもと)の姓を賜り、源雅信(みなもとのまさのぶ)と名乗った所から宇多源氏が誕生しました。
宇多源氏はその一族から公家になった家(庭田家、綾小路家、五辻家、大原家、慈光寺家、春日家)の方が多く、武家になったのは有名な所は佐々木家のみのようです。
唯一宇多源氏系で武家となった佐々木家は近江国を拠点としていたので近江源氏と呼ばれます。その近江源氏から後々分派したのが出雲源氏(いずもげんじ)となります。
出雲源氏の発祥は佐々木義清(ささき よしきよ)であり、私の先祖である佐々木盛綱(ささき もりつな)の実弟となります。佐々木義清が承久の乱(じょうきゅうのらん)の際に武勲を挙げ、隠岐国(おきのくに)と出雲国(いずものくに)の守護職を鎌倉幕府から賜ったことによって出雲の地へ住居を移し、そこで隆盛した一族であるので出雲源氏と呼ばれます。
その出雲源氏の元は上記したように近江国を拠点とした近江源氏であり、その主流の一族が佐々木家となります。
上記した源雅信の子孫の源成頼(みなもとのなりより)の子である佐々木義経(ささき のりつね)が初めて佐々木の名を名乗ったことで佐々木家が起こりました。
近江源氏佐々木党は、そこから分派して各地に散りそれぞれの土地で名前を変えたりしながら隆盛しました。上記したように私の生まれた家である加地家もその中の一つです。
それら近江源氏佐々木党から分派して起きた数多の家のルーツとなる氏神を祭っているのが沙沙貴神社(ささきじんじゃ)です。
近江源氏佐々木党の始祖となる宇多天皇と、その息子である敦実親王が祭られています。
祭神の第一座が少名毘古那神(すくなひこなのかみ)ですが、この神は古事記では原初三神の一柱である神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、日本書紀では同じく原初三神の一柱である高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子であるとされているようです。
カミムスビとタカミムスビはこの世の構成概念である陰(女)と陽(男)の象徴であり、その二つが合わさって世界が出来ているということを示している神だそうですが、それぞれの神話でその二柱の子であるとされるスクナヒコナという神が何なのか、調べてみたいと思います。
加地龍太 記