自源流の最高傳位と最高目録を授かった一人「山田昌巌翁」の墓参り

昔の薩摩国(さつまのくに)は、各地の城の周囲に麓(ふもと)と呼ばれる武家たちの集落を作る外城制度(とじょうせいど)がありました。

この外城制度がはっきり形になったのは江戸時代になってからとのことですので、薩摩国が薩摩藩になってから制度としてはっきりしたということですね。

鹿児島県の出水市(いずみし)も、その外城制度が出来てから出水麓(いずみふもと)と呼ばれる麓が作られました。江戸時代の初期にその出水麓の地頭(じとう)に任命されて着任した山田 有栄(やまだ ありなが)という人物がいました。

その山田有栄という人は、天眞正自源流の四代目継承者である瀬戸口 宗重(せとぐち むねしげ)の弟子であり、自源流の最高傳位と最高目録を授かった一人でした。現在に至るまでの自源流の長い歴史の中で、この二つを授かった人物は数えるほどしかいないというので、大変な人物だったのだと思われます。

山田有栄は22歳のとき、師匠である瀬戸口宗重と共に関ヶ原の戦いに出陣しました。有名な「島津の退き口(しまづののきぐち)」の際には、師匠の瀬戸口宗重と共に島津軍の中軍(ちゅうぐん/布陣の中で大将がいる部隊)の右備えに布陣し、大将である島津義弘に傷一つ加えさせない大活躍をしたと記録されています。

島津の退き口を成功させた後、薩摩国へ向かう途中に通過したある村で、兵糧と休息所を提供してくれた村人への代償として支払うべき金銭が底をついていることが判明すると、そんなものは踏み倒して先を急ぐべきという他の者の意見を制して、有栄は自らの刀の金象嵌の鞘を村に置き残しました。

これらの活躍により、有栄は関ヶ原の戦いにおいて「軍功並ぶものなし」と主君の島津義弘に言わしめ、帰国後に義弘から200石の加増を賜り、義弘の実兄であり先代本家島津家当主の島津義久から「丹波守吉道」の銘刀を賜っています。

それから29年後の1629年、51歳となった山田有栄は出水郷の地頭に任命されて出水の地へ赴任し、出水麓の武士たちのまとめ役となりました。

「出水兵児(いずみへこ)」と呼ばれる気風と教育システムは、山田有栄が出水の地頭になったときに作られ、その後幕末に至るまで薩摩の武家の男の「かくあるべき」という理想像として尊重されました。

出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)の口語訳↓

「人は正しいことをしないといけない。
正しいこととは、嘘を言わないこと、自分よがりの考えを持たないこと、素直で礼儀正しく、目上の人にぺこぺこしたり目下の人を馬鹿にしたりしないこと、困っている人は助け、約束は必ず守り、何事にも一生懸命やること、人を困らせるような話や悪口などを言ってはいけないし、自分が悪ければ首が刎ねられるようなことがあっても弁解したり恐れたりしてはいけない、そのような強い心を持つことと、小さなことでこせこせしない広い心で、相手の心の痛みが分かる優しい心を持っているのが、立派な人と言えるのです。」

その山田有栄の墓は今も鹿児島県出水市にあります。

↓山田有栄の墓の入り口にある「山田有栄昌巌翁」と書かれた石と、墓へ続く登り道。昌巌(しょうがん)とは、山田有栄の法号です。

↓山田有栄の墓の近くにある石碑

我々の大先輩に御挨拶が出来て何よりでした。

加地

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