加地家初代のゆかりの地へ

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先祖巡りの旅:佐々木盛綱の足跡


春分が過ぎて2週間が経った頃、寅の春から卯の春となり春の春となり気候が春らしい時期、岡山県倉敷市藤戸へ先祖巡りをして参りました。私の先祖であり加地家初代となる人物は佐々木盛綱(ささき もりつな)という人です。

佐々木盛綱は佐々木秀義(ささき ひでよし)の三男であり、平安時代末期から鎌倉時代前期を生きた武将です。佐々木家とは近江国(おうみのくに/今の滋賀県)の佐々木荘(ささきのしょう)と呼ばれていた地域(今の東近江市と近江八幡市の辺り)を根城にしていた一族であり、その始まりは第59代目天皇である宇多天皇の血筋である宇多源氏となります。

宇多源氏系武家源氏の一つである近江源氏の最大勢力が佐々木家でした。公家源氏ではなく武家源氏の家系ですので、武家源氏の棟梁である清和源氏の一族に仕えていました。

佐々木盛綱の父である佐々木秀義が清和源氏棟梁の源義朝(みなもとのよしとも)の家臣として仕えていた関係で、息子の佐々木盛綱は源義朝の息子である源頼朝(みなもとのよりとも)の家臣として10代の半ば頃から仕えていました。

源頼朝が兵を挙げて京都を支配していた平家に挑んだ源平合戦にも、盛綱は頼朝に仕えて参戦しました。源平合戦の最終戦争である壇ノ浦の戦いの少し前に、今の岡山県倉敷市藤戸で勃発した藤戸の戦い(これも源平合戦の終わりの時期に起こった戦争です)で、敵の大将格であった平行盛(たいらのゆきもり/平清盛の孫)を佐々木盛綱が討ち取ったことで武勲を挙げました。

藤戸の戦いが勃発した地域には、「盛綱橋」と呼ばれる佐々木盛綱の名前を取った橋があり、その橋には佐々木盛綱の像が建てられています。

この藤戸の地には藤戸寺(ふじとじ)という真言宗の寺があり、その藤戸寺は藤戸の戦いの戦死者の霊魂を慰霊するために盛綱が建てた寺とのことです。

桜も綺麗でした。

藤戸の戦いのとき、源軍側が陣を敷いた場所がこちら
平軍側が陣を敷いた場所はここから車で5分くらい離れた場所で、今は西明院という真言宗の寺になっています。その西明院の境内の中に先陣庵と呼ばれる祠があり、そこも藤戸の戦いの戦死者の慰霊碑とされているようです。

西明院の境内の中にある先陣庵

私の先祖の盛綱はここで敵将である平行盛を討ち取り、その武勲によって源平合戦の後、鎌倉幕府初代将軍である源頼朝から加地荘(かじのしょう/今の新潟県新発田市)、児島荘(こじまのしょう/今の岡山県倉敷市)を拝領しその地域の地頭(じとう)となりました。

本拠地を加地荘としたので、名を加地と名乗り加地氏の初代となり、加地盛綱(かじ もりつな)となりました。

後々には源頼朝から磯部荘(いそべのしょう/今の群馬県安中市)も拝領しそこの地頭となり、晩年は正室と共に磯部荘に住み磯部温泉に浸かって安穏とした余生を過ごしたとのことです。

佐々木盛綱=加地盛綱とその妻の墓は群馬県安中市の松岸寺という寺に今もあり、盛綱夫妻の墓は群馬県の指定重要文化財となっているようです。

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