自源流五代目、六代目、七代目とその弟子たちの墓参り

現在の鹿児島県鹿児島市にかつて存在していた南林寺という寺に、天眞正自源流の五代目、六代目、七代目の継承者とその弟子たちの墓がありました。

南林寺は明治時代の廃仏毀釈の際に廃寺となっており寺自体はもう無いのですが、墓は壊されることなく場所を移動されて、名前を「南林寺墓地由緒墓」として鹿児島市の某所に現在も遺されています。

元々南林寺は本家島津家15代目当主の島津貴久の菩提寺でありましたが、島津貴久の墓は現在は歴代島津家の墓が揃っている墓地に移されておりますので南林寺墓地由緒墓にはありません。この南林寺墓地由緒墓に、自源流ゆかりの人々の墓が遺されいます。

五代目「薬丸 兼陳(やくまる かねのぶ/旧名:瀬戸口 宗春(せとぐち むねはる)」

六代目「薬丸 兼福(やくまる かねとみ)」

七代目「薬丸 兼慶(やくまる かねよし)」

となります。

五代目の薬丸兼陳は、通称「けんちん(やくまる けんちん)」と称された人物ですが、旧名は瀬戸口 宗春(せとぐち むねはる)」という名前でした。

諸事情により瀬戸口家が家断絶となったことにより瀬戸口姓を名乗ることを許されず、薬丸家へ養子に行ったことにより薬丸姓を名乗り、名前も宗春から兼陳へと改め薬丸兼陳となりました。

この五代目薬丸兼陳は、初代瀬戸口 政重(せとぐち まさしげ)の玄孫(やしゃご)となります。

↓五代目、薬丸兼陳の墓

薬丸兼陳は晩年仏教に得度して如水(じょすい)と号しました。

↓六代目、薬丸兼福の墓

↓七代目、薬丸兼慶の墓

瀬戸口家四代のあとに薬丸家三代が自源流の師範家を継承し、それより後は溝口家へと継承され現在へと流儀が遺されて来ました。

↓こちらは平田 監物(ひらた かんもつ)の墓。平田監物という人物は、五代目薬丸兼陳の高弟だった人とのことです。

↓これら二つも、五代目の弟子たちの墓とのことでした。

五代目からは江戸時代の人間となります。

初代から四代目の墓は既に撤去されてしまっていましたが、五代目、六代目、七代目の墓はまだ遺されていて良かったと思いました。

加地

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