自源流開祖が悟った瀧「伊汪之瀧(いおうのたき)」

鹿児島県姶良市の某所に天眞正自源流の開祖、瀬戸口政重(せとぐち まさしげ)が悟った瀧があります。

私も2024年6月某日に自源流の一門会の人々複数人と共に開祖開眼の地、悟りに至った伊汪之瀧(いおうのたき)へ赴きました。

姶良市(あいらし)は昔、薩摩国(さつまのくに)領主の本家島津家第十七代目当主である島津義弘が根城にしていた地域です。

島津義弘は戦国最強と称された島津軍団の首領として数々の武勲を立てたことで有名ですが、朝鮮出兵の際の泗川の戦い(しせんのたたかい)での約7000人の兵力で20万人の敵軍に勝利した武勇は特に有名で、今でも戦地となった韓国の泗川では「鬼島津(おにしまづ)」の名が残っていると言います。

その島津義弘が生まれるよりも前、自源流の開祖は全国行脚を経て薩摩国へ辿り着き、そこに縁を得て定住することとなります。

開祖の元の名は小瀬長宗(おせ ながむね)です。小瀬家は常陸国(ひたちのくに/現在の茨城県)の北側を支配していた佐竹家の分家であり、本家となる佐竹家もその分家でありDNAでは繋がっている小瀬家も清和源氏の末裔となります。

その小瀬長宗が定住の地と定めた薩摩国の領主は島津家です。その島津家の家臣に瀬戸口家がいました。小瀬長宗は瀬戸口家の娘「静(しずか)」と縁を得て夫婦(めおと)となり、瀬戸口家の養子となり本家島津家に武官として仕官することになったようです。

年代表的に見ると、本家島津家の10代目当主の島津立久(たつひさ)、11代目当主の島津忠昌(ただまさ)、12代目当主の島津忠治(ただはる)、13代目当主の島津忠隆(ただたか)に仕えたことになります。

瀬戸口家の養子となってから名を瀬戸口政基(まさもと)と改め、後に瀬戸口政重(まさしげ)に改めたとのことです。国司は備前守(びぜんのかみ)を賜っています。

この小瀬長宗改め瀬戸口政重が悟りを得たと伝わっているのが伊汪之瀧です。↓こちら

私は滝壺まで泳いで行き、開祖が悟った瀧で瀧行をしました。滝壺は底が深く足が着かなかったので、岩壁の僅かな窪みに足を掛けて何とか瀧に打たれることが出来ました。↓

ちょうど瀧に打たれるのに適した場所が一ヶ所あり助かりました。

伊汪之瀧に打たれているとき、「励め」と声が聞こえました。この経験以降、稽古の強度と頻度を上げても肉体と精神が耐えてくれると自然と思え、いざそのようにしてみたら何とか耐えれました。全身筋肉痛になりますが。

心が修行の激しさに負けないでいれば、その修行を継続して自らの力に変えてゆくことが可能です。修行修錬稽古は自らを高めるためのものですので、現代に合わせて無理なく怪我無くやっていくのが正解だと考えます。

滝壺でその場泳ぎをして浮いた状態で上を見上げたとき、太陽と瀧の水しぶきとで瀧の水の周囲に綺麗な虹が出来ていました。

太陽の光に照らされて光り耀く瀧の水の幻想的な風景は、スマホを持って泳いでいくことが無理なのと瀧の近くでは水しぶきが強くて持って行けたとしても写真を撮るのは難しいということで残念ながら写真には撮っていませんが、私の脳内にはしっかりと記憶しました。

恐らくは開祖からの御言葉であろうと思われる「励め」の一言も、脳内に刻んで永遠に忘れずにいようと思います。

加地

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